原文・書き下し文の前の数字と現代語訳の前の数字が異なるため違うこともあるが、原文・書き下し文に対応する現代語訳をすぐ下に載せている。引用文は緑の点線で囲っている。
2024年2月22日 椿 耕太郎
全ての人は素晴らしい、ということは言っておらず、中にはどうしても駄目な人間がいるととれるところがある。駄目な人間像から改めるべき所が見えてくる。 駄目な人間が多く周りに居る気がしてくる。
八之十六では熱狂的で不正直な人、無知で律義でない人、才能がなくて誠実でもない人はどうしようもない人であるとある。無知や才能がないことは悪いことではないが、律儀さも誠実さもない人は駄目。律儀さや誠実さがあれば知識や才能がなくても人としては悪くはない。
十七之十五には共に仕えるのに、どうしようもない人間もあげている。 何のために地位を得ようとしているのかが分かっていない地位に振り回されている人。得ること自体が目的となっている愚か者がいる。こういう人は少なからず居る。
十五之三八では教育によって変わるとあるから、若ければまだ諦める必要はない。
八之十六
子曰、「狂而不直、侗而不愿、悾悾而不信、吾不知之矣。」
子曰く、狂にして直ならず、侗にして愿ならず、悾悾として信ならざるは、吾之を知らず。
一六(二〇〇)
先師がいわれた。――
「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律儀さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない。」
十七之十五
子曰、「鄙夫。可與事君也與哉。其未得之也、患得之。既得之、患失之。苟患失之、無所不至矣。」
子曰く、鄙夫は與に君に事ふ可けむや。其の未だ之を得ざるや、之を得むことを患へ、既に之を得れば之を失はむことを患ふ。苟も之を失はむことを患へば、至らざる所なし。
一五(四四九)
先師がいわれた。――
「心事の陋劣な人とは、到底いっしょに君に仕えることが出来ない。そういう人は、まだ地位を得ないうちは、それを得たいとあせるし、一旦それを得ると、それを失うまいとあせるし、そして、それを失うまいとあせり出すと、今度はどんなことでもしかねないのだから。」
十五之三八
子曰、「有敎無類。」
子曰く、敎あり、類なし。
三八(四一七)
先師がいわれた。――
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない。」