論語

原文・書き下し文の前の数字と現代語訳の前の数字が異なるため違うこともあるが、原文・書き下し文に対応する現代語訳をすぐ下に載せている。引用文は緑の点線で囲っている。



人間関係

無理して多くの人と人付き合いをすることは推奨していないようである。友に対しても厳しい接し方や条件が挙げられている。

2023年11月7日 椿 耕太郎



群れない

必要もないのに徒党を組むことを否定している。十五之二一が端的に表しているように感じる。 君子は争わず群れない。 人と一緒に生活はするが必要以上に徒党を組むことはしない。数に頼んで他人を威圧したり、優位に立った気分になることはしない。
十五之十六では群れることの弊害を示している。日本ではこれを聞く必要な人が沢山いる。無駄な会議をすることが仕事だと思っている人がこの見本だ。徒党を組んで内輪で無駄なことをして満足する。

十五之二一

十五之二一
子曰、「君子矜而不爭、群而不黨。」

いはく、君子くんしきようにしてあらそはず、ぐんしてたうせず。
二一(四〇〇)
 先師がいわれた。――
「君子はほこりをもって高く己を持するが、争いはしない。また社会的にひろく人と交るが、党派的にはならない。」

十五之十六

十五之十六
子曰、「群居終日、言不及義、好行小慧、難矣哉。」

いはく、群居ぐんきよ終日しうじつことおよばず、このんで小慧せうけいおこなふ、かたいかな。
一六(三九五)
 先師がいわれた。
「朝から晩まで多勢集っていながら、話が道義にふれず、小ざかしいことをやって得意になっているようでは、見込なしだ。」



常に先入観を持たない

この人は仲間だから、仲が良いから、と言った先入観なく、その時その時の言葉や態度で評価をする。 人を疑わないけど、無条件に信じるわけではなく、偽りをすばやく察知出来る人が賢。信じればいいというものではない。 一回ずつの発言を一回ずつ発言者に対する先入観無しで評価する。
非常に難しいことだ。日頃まともなことを言わない人が、とてもまともで良いことを言うこともある。先入観があると、気づかなかったり反応できなかったりする。 前のを踏まえると、変に徒党を組むと仲間内だけ評価が偏ってしまう、というのもあるのだろうか。

十四之三三

十四之三三
子曰、「不逆詐、不億不信、抑亦先覺者、是賢乎。」

いはく、あらかじいつはりとせず、おもんばかりてしんあらずとせず、抑〻そもそもまた先覺者せんかくしやは、けんなるか。
三三(三六五)
 先師がいわれた。――
「だまされはしないかと邪推したり、疑われはしないかと取越苦労をしたりしないで、虚心に相手に接しながら、しかも相手の本心がわかるようであれば、賢者といえようか。」

十五之二二

十五之二二
子曰、「君子不以言舉人、不以人廢言。」

いはく、君子くんしこともつひとげず、ひともつことはいせず。
二二(四〇一)
 先師がいわれた。――
「君子は、言うことがりっぱだからといって人を挙用しないし、人がだめだからといって、その人の善い言葉をすてはしない。」


友との接し方

前にあったように毎回先入観なく接するから、忠告をして駄目であれば無理に押さない方がいいのだろう。 人との関係は大事だけど、やり過ぎは自分のためにならない。相手が必ず誠実な対応をするとは限らない。

十二之二四

十二之二四
子貢問「友」。子曰、「忠吿而善道之、不可則止、毋自辱焉。」

子貢しこうともふ。いはく、忠吿ちうこくしてこれみちびき、不可きかざればすなはむ、みづかはづかしめらるることし。
二三(三〇一)
 子貢が交友の道をたずねた。先師はこたえられた。――
「真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない。」


友との関係

具体的にどのような人間関係がよいのか。同じことをしているから一緒に居よう、といった馴れ合いは友とはしていない。 教養を深め合い、一緒に仁を目指す関係が友である。 また、同じ道、考え方の人でなければ一緒に居ない方がよい。 同じことをしているようでも、目標や見てるものが違うと話は通じていない。

十二之二五

十二之二五
曾子曰、「君子以文會友、以友輔仁。」

曾子そうしいはく、君子くんしぶんもつともくわいし、とももつじんたすく。
二四(三〇二)
 曾先生がいわれた。――
「君子は、教養を中心にして友人と相会し、友情によって仁をたすけあうものである。」

十五之三九

十五之三九
子曰、「道不同、不相爲謀。」

いはく、みちおなじからざれば、あひためはからず。
三九(四一八)
 先師がいわれた。――
「志す道がちがっている人とは、お互いに助けあわぬがいい。」


良い友

友の基準が非常に厳しい。次の例が挙げられている。 十之十五では、自分に見返りがないと分かっていても困っているときには面倒を受けてくれる人。 また十六之四では、自分のことを顧みず苦言を呈してくれる人。
何でも裏表なく言えて博学な人は見つけるのが大変そうだ。口先だけの中身のない人間には気をつけないといけない。

十之十五

十之十五
朋友死、無所歸、曰、「於我殯。」朋友之饋、雖車馬、非祭肉、不拜。

朋友ほういうして、するところなきときは、いはく、われおいひんせよと。朋友ほういうおくりものは、車馬しやばいへども、祭肉さいにくあらざればはいせず。
一五(二五〇)
 先生は、友人が死んで遺骸の引取り手がないと、「私のうちで仮入棺をさせよう」といわれる。
 先生は、友人からの贈物だと、それが車馬のような高価なものでも、拝して受けられることはない。ただ拝して受けられるのは、祭の供物にした肉の場合だけである。

十六之四

十六之四
孔子曰、「益者三友、損者三友、友直、友諒、友多聞、益矣。友便辟、友善柔、友便佞、損矣。」

孔子こうしいはく、益者えきしやいう損者そんしやいうちよくともとし、りやうともとし、多聞たぶんともとするはえきなり。便辟べんべきともとし、善柔ぜんじうともとし、便佞べんねいともとするはそんなり。
四(四二四)
 先師がいわれた。――
「益友に三種、損友に三種ある。直言する人、信実な人、多識な人、これが益友である。形式家、盲従者、口上手、これが損友である。」


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