論語

原文・書き下し文の前の数字と現代語訳の前の数字が異なるため違うこともあるが、原文・書き下し文に対応する現代語訳をすぐ下に載せている。引用文は緑の点線で囲っている。



楽しむ

2022年11月14日 椿 耕太郎

ものごとの捉え方によって、感じ方が全く変わってくるし、結果も変わってくる。

六之十八のように同じことをしていても、好きでやっていたり楽しんでやっている人にはかなわない。つまり、自分が楽しいと思えることを、楽しいと思えるようにやれると、学問でも何でも身につくし、成果も出やすい。

老は仏教で生老病死であげられているように人が苦しむことの代表である。しかし、六之二一で仁者は静かで命長し、七之十八で老の将に至らむとするを知らず、としてるところから、楽しむことで、年をとってもうろたえず静かに過ごすことができるのだろう。理想的な生き方が食を忘れるくらい憂いを忘れるくらい老いを忘れるくらい楽しんで懸命に生きていくことなのだろう。

ただ、七之十一にあるように生きていく(お金を得る)ためには楽しくないのを我慢しなくてはいけないときもある。理想論ではなく現実的な言葉だと思う。楽しんでやれることが一番よいが、当然生きていく上ではそうはいかない場合もある。お金をもらって仕事をしている場合には我慢する必要がある場合もある。お金(対価)がない場合は我慢していると大きな間違いになることが多い。解説で否定されている「もし富が求めて得られるものなら云々」ととる。参考文献(加地、2009)も「儲かるならば下働きの仕事もしよう~」と解釈をしている。


六之十八

六之十八
子曰、「知之者、不如好之者、好之者、不如樂之者。」
いはく、これものは、これこのものかず。これこのものは、これたのしものかず。

一八(一三七)
 先師がいわれた。――
「真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は真理を楽む者に及ばない。」
○ 孔子はここで求道者の境地を知・好・楽の三段にわかつて表現している。「知」は単なる知的理解の境地、「好」は感情の燃燒を伴つてはいるが、まだ道と自己とが別々であり、相対している境地、「楽」は道と自己とが完全に溶けあつて一如になつた境地をいうのであろう。

六之二一

六之二一
子曰、「知者樂水、仁者樂山。知者動、仁者靜。知者樂、仁者壽。」
いはく、知者ちしやみづねがひ、仁者じんしややまねがふ、知者ちしやうごき、仁者じんしやしづかなり。知者ちしやたのしみ、仁者じんしやいのちながし。

二一(一四〇)
 先師がいわれた。――
「知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽み、仁者は永遠の中に安住する。」
○ 孔子が知者を高く評価しつつ、仁者を一層高く評価した気持がよくうかがわれる。

七之十八

七之十八
葉公問孔子於子路、子路不對。子曰、「女奚不曰、『其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾。』」
葉公せふこう孔子こうし子路しろふ。子路しろこたへず。いはく、なんぢなんはざる、ひとりや、いきどほりはつしてしよくわすれ、たのしんでもつうれひわすれ、らうまさいたらむとするをらずと云爾しかりと。

一八(一六五)
 葉公しょうこうが先師のことを子路にたずねた。子路はこたえなかった。先師はそのことを知って、子路にいわれた。――
「お前はなぜこういわなかったのか。――学問に熱中して食事を忘れ、道を楽んで憂いを忘れ、そろそろ老境に入ろうとするのも知らないような人がらでございます、と。」
○ 葉公==楚の葉(しよう)県の長官、沈諸梁(ちんしよりよう)、字は子高(しこう)。

七之十一

七之十一
子曰、「富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之。如不可求、從吾所好。」
いはく、とみもとくんば、執鞭しつべんいへども、われまたこれさむ、もとからずんば、このところしたがはむ。

一一(一五八)
 先師がいわれた。――
「もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい。」
○ 富貴は天命だという孔子の思想を基礎にして、本章を「もし富が求めて得られるものなら云々」という意味に解する人が多いが、それでは「得られるものなら泥棒でもする」ということにもなつて、大変である。


参考文献 引用文献

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