原文・書き下し文の前の数字と現代語訳の前の数字が異なるため違うこともあるが、原文・書き下し文に対応する現代語訳をすぐ下に載せている。引用文は緑の点線で囲っている。
2022年7月19日 椿 耕太郎
十五之四十は短いが含蓄深い。読んでいて心に強く残った。
十分に意思が通じるところでやめた方が理解されやすい。余計なことを言うと相手を混乱させ理解が浅くなってしまう。相手を見て、ちょうど理解できる所まで喋って、ぴったり止める。 書かれている言葉も選りすぐった言葉で不要なものがなく、ただ理解するには十分な言葉が最も読む人に理解されやすい。
相手に達しているかを見極めることが難しく、これを実行することは至難の業である。
十五之四十
子曰、「辭、達而已矣。」
子曰く、辭は達するのみ。
四〇(四一九)
先師がいわれた。――
「言葉というものは、十分に意志が通じさえすればそれでいい。」
○ 一説には「十分意志が通ずるまではやめない。あいまいにしておいてはならぬ」という意味に解する。原文の「達」という字には、むろんそういう意味が含まれているし、孔子もいい加減でいいとは決して考えていない。しかし、「達したらそれ以上しやべる必要はない」というのがこの言葉のねらいだと思う。
他にも言葉を多く発することを諫めることばが多い。巧言令色の一之三。過剰な表現はいらないということだろう。四之二四では言葉は少なくてはいいが行動は素早くとしている。黙って速やかに行動する。十之一でも日頃は余計なおしゃべりはしなくていい。ただ、必要なことは言わなくてはいけない。
一之三
子曰、「巧言令色、鮮矣仁。」
子曰く、巧言令色、鮮し仁。
三(三)
先師がいわれた。――
「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、仁の影がうすい。」
四之二四
子曰、「君子欲訥於言而敏於行。」
子曰く、君子は言に訥にして行に敏ならんことを欲む。
二四(九〇)
先師がいわれた。――
「君子は、口は不調法でも行いには敏活でありたいと願うものだ。」
十之一
孔子於鄕黨、恂恂如也、似不能言者。其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾。
孔子鄕黨に於ては恂恂如たり、言ふ能はざる者に似たり。其の宗廟朝廷に在りては、便便として言ふ、唯〻謹めるのみ。
一(二三六)
孔先生は、自宅に引きこもっておいでの時には、単純素樸なご態度で、お話などまるでお出来にならないかのように見える。ところが、宗廟や朝廷にお出になると、いうべきことは堂々といわれる。ただ慎しみだけは決してお忘れにならない。
五之二五では人間関係における言葉も達するのみで、過剰に言葉を飾るのもいけないし、怨みを隠すのもよくないとしている。過剰にならない、ちょうどいい関係を保つ。なかなか難しい。
五之二五
子曰、「巧言、令色、足恭、左丘明恥之、丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之。」
子曰く、巧言令色足恭するは左丘明之を恥づ、丘も亦之を恥づ。怨を匿して其の人を友とするは、左丘明之を恥づ、丘も亦之を恥づ。
二四(一一六)
先師がいわれた。――
「言葉巧みに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、左丘明 は恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる。」
○ 左丘明==古代の有徳の人。つまびらかにはわからない。左伝の著者とは別人。
言葉を少なくするのは、十二之三にあるように自分の発言に責任を持つためである。責任を持てない発言はしない。十四之二九は参考文献の訳を見ると、引用している訳の注釈の意味となっていた。私は注釈の「実行のできないことを口にすることを恥じる」意味の方がしっくりくる。十二之三と一緒で自分の言ったことは責任をもって実行する。達成させることだけ言葉にする。
十二之三
司馬牛問「仁」。子曰、「仁者、其言也訒。」曰、「其言也訒、斯謂之『仁』已夫。」子曰、「爲之難、言之得無訒乎。」
司馬牛仁を問ふ。子曰く、仁とは其の言や訒ぶ。曰く、其の言や訒ぶ、斯に之を仁と謂ふか。子曰く、之を爲すこと難し、之を言ふこと訒ぶこと無きを得むや。
三(二八一)
司馬牛が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「仁者というものは、言いたいことがあっても、容易に口をひらかないものだ。」
司馬牛が更にたずねた。――
「容易に口をひらかない、――それだけのことが仁というものでございましょうか。」
すると先師はいわれた。――
「仁者は実践のむずかしさをよく知っている。だから、言葉をつつしまないではいられないのだ。」
○ 司馬牛==孔子の門人、名は犂(り)、又は耕(こう)。宋の人
○ 司馬牛は多辯の人であつた。孔子の答は謂ゆる人を見て法を説いたのである。前の顔渕に対する答、仲弓に対する答、すべてそうでないものはない。
十四之二九
子曰、「君子恥其言而過其行。」
子曰く、君子は其の言の其の行に過ぐるを恥づ。
二九(三六一)
先師がいわれた。――
「君子は言葉が過ぎるのを恥じる。しかし実践には過ぎるほど努力する。」
○ 原文「而」が「之」になつている本がある。それだと、「君子はまだ実行の出来ないことを口にすることを恥じる」という意味になる。