原文・書き下し文の前の数字と現代語訳の前の数字が異なるため違うこともあるが、原文・書き下し文に対応する現代語訳をすぐ下に載せている。引用文は緑の点線で囲っている。
2022年7月19日 椿 耕太郎
論語の中での未知のものに対する考え方は無理に触らない。未知のものをどんどん無理矢理にでも開いていく西洋から始まった科学技術文明の考え方とは違う。論語の考え方では今のような科学技術は発達しなかっただろう。そして、今のような環境問題もなかったかもしれない。そう思わされた部分を抜き出した。
六之二十の前半部分の「知」についての記述が、理解できない自然現象「鬼神」は遠ざけるととれるだろう。科学は子のいう「知」ではないのだろうか。分かってしまえば「鬼神」ではなくなるのだろうか。科学技術が原子力のように人が扱うには強すぎる「鬼神」となってしまっているようにも思える。
七之二十も六之二十と同じで、「怪」と「神」が六之二十の「鬼神」にあたるとみていいだろう。語ることすらしない。
十一之十一は他の二つ(六之二十と七之二十)とは少し受ける感じが違う。まったく分からないことより分かることから手をつける。非常に現実的。
六之二十
樊遲問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣。」問仁。曰、「仁者先難而後獲、可謂仁矣。」
樊遲知を問ふ。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざくるを、知と謂ふ可し。仁を問ふ。曰く、仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂ふ可しと。
二〇(一三九)
樊遅 が「知」について先師の教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「ひたすら現実社会の人倫の道に精進して、超自然界の霊は敬して遠ざける、それを知というのだ。」
樊遅はさらに「仁」について教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「仁者は労苦を先にして利得を後にする。仁とはそういうものなのだ。」
七之二十
子不語、怪、力、亂、神。
子怪・力・亂・神を語らず。
二〇(一六七)
先師は、妖怪変化 とか、腕力沙汰とか、醜聞とか、超自然の霊とか、そういったことについては、決して話をされなかった。
十一之十一
季路問事鬼神、子曰、「未能事人、焉能事鬼。」「敢問死。」曰、「未知生、焉知死。」
季路鬼神に事へむことを問ふ。子曰く、未だ人に事ふること能はず、爲んぞ能く鬼に事へむ。敢て死を問ふ。曰く、未だ生を知らず、爲んぞ死を知らむ。
一一(二六四)
季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう。」
季路がかさねてたずねた。――
「では、死とは何でありましょうか。」
すると先師がこたえられた。――
「まだ生が何であるかわからないのに、どうして死が何であるかがわかろう。」